昭和44年 8月25日 朝の御理解  ●②x2 ⑫  大坪美香

御理解第68節 
 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。

 これは、何の稽古でも同じですけども、まして信心の場合は辛抱ということが一番大事と申されております。
信心辛抱さえしておれば物事整わんことはないと、今日はここで松影会久留米の手続きを頂いておる、それも久留米地区の教会だけの総代幹部、またここでは一般信者の方も大歓迎でありますが、信心の実習が、実習会が今日開いてあるはずです。そうでしょう先生。その久留米の元をとられた初代の石橋松次郎という先生が、この信心辛抱ということをかけ守りとでも申しましょうか、また信者にもそれを繰り返し繰り返し教えられた。
四神金光様、ね、久留米の初代に教えられておることは「なぁ石橋さん、信心辛抱して物事整わぬことはないぞ」と御理解下さった、ということでございます。
ですから、その神様のお言葉一言を久留米の石橋先生は守り抜かれて現在にもその信心の系統というかね、信心辛抱のことがいつもお話しにでてまいりますし、そこで問題はその信心辛抱の内容についてまあ、色々に見当されるのでございます。
私、今日はこの辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、と、辛抱こそ身に徳を受ける修行とおっしゃるのは、ただ辛抱しておる人はたくさんあるんですけれどねぇ、その身に徳を受けておる人は少ない。ですからここで辛抱、徳が身に受けられるような辛抱とはどういうようなことであろうかと、まぁそういうようようなところに強調したいと思うんです。
●② 私が今朝方こんなお夢を頂きよった。ちょうど昔の西洋にあります宮殿のような所、感じである。それがね、もぅ全部その凍りついてしまっておる。何かこぅ昔のおとぎ話の中にそんなこと読んだような感じかなんか魔法使いがそのままにですね、家も人も凍る、凍らせてしまったといったような、お話しを読んだような気がするんですが、まぁそういうような話しにでも出てきそうな素晴らしい宮殿。
その宮殿がですね、もうその見事な宮殿が全部凍ってしまっておる。どういうようなことだろうかと私は思わせて頂いて、これは今朝からそのことを神様にお願いをさせて頂いておりましたらね、信心の熱情を持ってね、その凍り果てておるものを溶いていかなければならない。溶かしていかなければならない。そして今日この六十八節を頂いてみてからまた改めて思わせて頂いくことなんですけれども、この辛抱こそ身に徳を受ける修行とおっしゃるような辛抱はね、ただじっとその、辛いけれども苦しいけれども、または雨が降っても風が吹いてもそれを辛抱し抜いておるということは、その凍り果てた、いわば辛い辛抱とは辛い(おと?)抱くと書いてある。辛いことを抱くということが辛抱だ。その辛いものをじっと自分で抱いておるというだけではです、それは溶けない。ね、ただ、辛抱しておりさえすれば、もうこうやって神様におすがりさえしとればいつかは溶けると、ね、いつかはおかげを受けられるとか、いつかは身に徳が受けられるといったようなものじゃないと、どこまでもやはり信心辛抱である。だからというて、なら信心辛抱ということはただ、お参りが出来ております、金光様をうちにはおまつりしております、といったようなことだけで、信心が続けられておるというようなものでもないというかね、それでは徳を受けられないということ。
ね、言い換えますとね、その宮殿のような素晴らしいところにお互いが住めれるんだ、と。誰しもが、ね、それを溶かすだけの凍りついておる凍りついておるそれを溶かすだけの、信心の熱情がないのだ、とも言えるわけです。
ね、そこでそういう例えば凍りついたようなものを抱いておる辛抱というのは、なるほど容易なことではないけれども、それこそね、抱いておるものを放したいごとあるけれども、ね、それではおかげにならん。じっとただ、しがみついておるだけではなくてです、そのことに辛抱するんではなくて、そういう冷たいものを抱いておる、辛いことを抱いておる時にどのような信心辛抱というかね、どのようなありかたにならせて頂いたら身に徳が受けられるかということ。
ありがたそうに信行や大祓いあげても、心に真がなければ神に嘘をいうも同然じゃ、と。ね、ですから、その辛いものを抱いておる時にです、神に嘘をいうような生き方をしてはいけないということなんだ。
いわゆる真もない実意のない、ありかたとか生き方ということではいけないということなんだ。どんなに例えばなら、ここにありがたそうに大祓いや信行をあげてもと言うておられることはです、どんなにありがたそうに信心の話しが巧者にできてもです、ね、言うならば信心の道理がわかってもです、ね、どんなに例えばそれはお話しが上手にできてもです、信心のことが、ね、真がなかったら神に嘘を言うも同然であり、真がなかったらその生活はそのまま神様のお喜び頂けれるというか、●⑫ねぇ最近は家業の行ということを頂きますが、家業の行ということは神様が受けて下さるような行にはならないということ、ね、だから神様が受けて下さらないような日々の生活がです、ね、十年二十年続いたところで、なるほどこれは身に徳がつくはずがないと私は思う。
神に嘘をいうようなものなんだ。ね、無理に大きな音をさせるにはおよばん、ね、拍手のことなんです。
ね、拍手神様に向って御祈念をさせてもらう時に拍手を打ったり大祓いをあげたり、まぁ昔は信行をあげたりした。ね、信行がどんなに節をつけてま、リズミカルなその御祈念ができてもです、ね、真がなかったらそれは神様に嘘をいうようなもの、神様には大きな音をさせることいらん小さい声でもいい素晴らしい、ね、例えばおのりとなんかを聞かせておりますと素晴らしい言葉がつづられてあります。ですからそういう素晴らしい文句を連ねなくてもです、ね、人にもの言うように、ね、痛いなら痛い痒いなら痒いと、というようにです、それが真をもって神様の前にそのことを祈らせてもらうならば願わせてもらうなら、ね、神様には聞こえると。真が芯なんだ。ね、真があれば神様は聞いて下さる、いや私達のごたるあの言葉にもすぐ出さんもんがおる。例えば1時間(?)して4時から5時までじっと御祈念さして頂いておってもです色々と申し上げることもあるけれども、なんも申しあげないない、なんも御祈念の言葉っていうものはない。ただ神様と通おておるその実感というか、ね、私の心と神様も心が通っておる。それでじっとこの有り難いものを誰にも邪魔されたくないというような気持ちがじっとただ、ご神前にぬかずいて御祈念をしておるだけなんだけれど神様はあれも聞いて下さる、これも聞いて下さる。だからいうたら言葉に出さんでもいいくらいなんだ。ね、神様に交流するようものをもっておくということ、人にものを言とうりに拝めと、こうおっしゃる。実に簡単。
ね、そこで、ここでその要求されるのは真である真心であるとこう。
ね、なかなかその真と真心と、心に真がなければ神に嘘をいうも同然じゃと。心に真とはどういうようなことだろう。信心辛抱さえしておれば物事整わぬことはないとか、ね、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃるけれど、もう何十年辛抱しとります、金光様の信心しよりますけども物事が整わないじゃないか、いつも整わないことばっかりを整いますように整いますようにというてお願いしとるばっかりじゃないか。どうぞ信心辛抱しとりますから、もういい加減身に徳を受けなきゃならんのに一つも身に徳を受けておるとも思われないような状態ではないか、本気で私はここに言われる信心辛抱とか、ね、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる、その身に徳を受ける修行ということがです、ね、どういうようなことかということを本気で改めてですね、練ってみなければいけない、そこんところを追求していかなければいけないと、こう思いますね。
そこでこの辛抱ということは辛いものを抱くということ、今日私がお夢の中で頂いた、もう凍りついてしまっておる素晴らしい宮殿のようなものがですここにあっても、それはただ冷たいだけであり、それはただ苦しいだけである。けれどもこれを溶かすのは信心の熱情以外にはないのだ。そこで一人よりも二人、二人よりも五人というように一家が勢を揃えた信心が求められるわけなんです。
ね、これはもう私がいつも申しますようにね、本当にそのおかげを受けてです、ね、例えば五人なら五人に家族があって、ね、三人が一生懸命信心してあとの二人が信心がない。どんなに素晴らしくおかげを受けていってもです、この二人がね、おかげじゃないと言ったらもうその家庭は幸せじゃないですもん。あんただん、おかげおかげっちいいよるばってん何がおかげなと、私どんが働いたけんこげん儲けでえたっち言うならもうそこには幸せはないです。また神様の求めたものもないです。
ね、一家中の者がおかげを頂いて、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私達なんだ。が、本当の良い信心もできんのに、一家をあげてこうやって信心させて頂いておれば、このようなおかげを受けてと一家中の者が神恩報謝の生活ができてこそ初めておかげがおかげになってくるのであり、おかげがおかげとしての値打ちが発揮されるのである。
ね、ですからこれを溶かす、溶かす勢いというものは、やはり一人じゃない、一家がそのことに熱をかけるということによっておかげが受けられる。
ね、そこがですね、そこんところを辛抱していくのだ。ね、だから、そこんところを辛抱していくとはどういうことかというと、最近頂いております、その家業の行をさせていただきながらの辛抱でなからなきゃならんということになるでしょう。
ね、家業の行、家業の行といや、家業の行、家業しておることをそのまま行として神様が受けて下さるということ。毎日毎日一家中の者が一生懸命働きよる、家業の行とおもっとっても神様がそれを受けて下さらなかったら一つの行、したもせんも同じことになる。ね、ですからその働きそのものがです、ただ我情我欲のためにですか、ね、ただ商売繁盛なら商売繁盛、農作物が立派に出来さえすりゃよかと言うてただ働いておるだけでは家業の行にはならん。ならんからその証拠に徳も受けられんじゃないか物事が成就してもいかんじゃないかと、本当の今になって。
ね、皆さん今日はここのところをしっかりひとつ頂いて頂きたい。ね、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、長年辛抱しちゃござるけれども、長年信心なしござるけれども、物事が整うていきよるというふうにも見えない。身に徳を受けていきござるとも思れない。それはいわば身に徳を受ける修行じゃというその辛抱はしとるけれどもその修行になっていないということ。さあ長年信心しておるから(?)にそれこそね、先生でん語れんごとむごうお話しできるごとなったっちゃ、それは神に嘘をいうも同然じゃとおっしゃる。
真がなかったら。そりゃもうお話しでんなんでん、この頃お坊さまのお説教聞かせて頂いてからそれこそもう笑わせたり泣かせたり自由自在、それこそ噺家の様にむごう話しなさってもです、その人自身が助かってござららず、その話しを聞いても、あぁ今日のお話はありがたかったと言うても、そのありがたかったけれども、それがおかげにつながらない。それは神に嘘を言うような話なんだからであります。
ね、ここは大祓いとか信行というだけのことじゃない。信心の話しなら信心の話しでも人に伝えられるぐらいな、だんだん信心ができてくる、けれどもそれがどんなに節をつけたり、ね、ありがたそうにお話しをしたりしても、ね、神に嘘を言うようなものであっておかげの受けられるはずはないと。
それはぽつぽつと、ね、なんちゅうござるじゃわからんごたるお話しであっても、その一言がですね、真があればその一言でも神には聞こえる。
神には聞こえるその神様が聞いて下さるそのことが徳になるのであり、おかげになるのであり、物事が整うていく元になるのであります。
そうですよね、ですからそこんところを一つ追求せないかん。そこで私はもういっぺんね、家業の行ということにこの辛抱しておる、辛いものを抱いておる、ね、辛いものを抱いておきながらでもやっぱ生活させていただいておりましょ。商売なら商売、百姓なら百姓しておりましょう。ですからその商売の仕方、百姓のその仕方そのものがです、果たして家業の行になっておるかどうかということをお互い検討して、それが家業の行になっておればです、その辛抱が続けられておればです、絶対徳になるのであり、物事が整っていく、信心辛抱さえをしておれば物事整わんことないとおっしゃるのはそういう辛抱だと。
日々の生活そのものが行であり、ね、日々の家業そのものが行として受けて下さるほどしの行なんだ。
ね、それには、なら、どういう家業の行か、ただ百姓しとります商売をしとりますという何十年間続いておるという人たちはありますけどども、一つも身に徳を受けるござる風でもなかなければ、物事が整うていきよる風でもないとするならですね、その家業の行というのはほんとの家業の行になっていないからだと悟ってそこからです、ね、そこからほんとの家業の行というものに取り組んでいかなければならない。
いわいる家業の行というほんとに行として、例えば一日の御用うけたまわり頂き終わった時にです、今日も本当に結構に御用におつかいまわしを頂いてありがたいというものがです、なるほど今日一日の働きのこの例えば苦しくもあったがつらくもあったけれども、このお神様が間違えなく行として受けておって下さったんだなと感じられるほどしのものがです、日々なからなければいけない。
またはそれが感じなくてもそれがおかげになって現れてこなければ、だめだ、嘘だ。心のなかにその行をさせて頂いた後の喜びとか、その行に対するおかげというものが、それに伴のうていないようであったら、それは何年何十年辛抱していっても身に徳を受けるようなことにはなってこないし、物事が整うほんとの意味においての整うてはこないということ。
ね、昨日、上野さんが今度学院こちらへ夏休みで帰ってきとる間に御用、自分の一番大切にしておるものといったようなテーマで作文をしなければならない。
それでどういうことを書かせてもらおうか何が書いたらいいだろうかと言うていつも言うとりますけど、なかなかその、ま、適当なやっぱ材料がないわけである。
それで先日わたくしこの家業の行の御理解を頂いたときにです、上野さん、今日のあの御理解をもとにしてね、書いたらどうかと。あんたが一番大事にしておるのは、まあ、それこそ自分のうちはすぐそこにあってもです、帰りもせずにここで一生懸命信心修行さして頂いておるが、いわゆる御用にあたっておるが、その御用そのものが大事だと思うから御用させてもらっているのだから、そのことを書いたらどうかと申しましたから、先日たくさんま、便箋にいっぱい書いておりましたから読んでくれというから読ませて頂いた。
だから、この家業の行という、御用ということは、こういう内容をもったもんでなければならないということはずっと書いておるけども、肝心要のところを書いておらん。
ね、そこでその肝心要のところを私はもういっぺんみなさんに聞いて頂こうと、皆さんも書きなさっても、そこを書き忘れとったんじゃその分からんもん。肝心要のところです。ね、先日、久富さんが御届をけされるのに、ね、大祭の前後六日間、泊り込みで御用を頂かれた。
その間に、ご自身の家庭の上では非常に色々とおかげを頂いておる。今、毎日野菜の出荷があっております。特にキャベツが中心だそうです。それをね、行くとこ行くところが高値をよんでおる。あれはもう行くところは北九州から大分辺までこうあるわけですね、佐賀辺まであるんです。行くところ行くところに高値をよぶ。途中でちっょとあの、おうちに帰られた時に、息子さんが言われること、国男さんが言うことがです、「お父さん、あんたが合楽で打ち込んで御用してくれよるけんで、うちではこげんおかげを頂きよる」という話しを聞いてこられた。
ね、とてもキャベツがどがしこかが、ちょっと細かいことは忘れたけれど、とにかく小さいトラックで一台出されると、五万円づつぐらいの金になる。
もう今までかつてないことだったと。それがその行くところ行くところがやはり高値をよんでおる。こちらの市場に持って行けば安かった、ところが高いところ高いところまるっきりえっていけるようにおかげを受けておるというのである。
昨日なんかは、お父さんそのね、一台で五万円ぐらいですけどもね、昨日のはそれのまた倍したって言います。大祭の前の日なんか、ほんとに御用らしい御用もできんからせめてこの五体、体をもってです、大祭前の御用をさせて頂こうと思わせて頂いておりましたら、うちではそのようにおかげを頂いておりますから、いつもの大祭の時よりもね、神様へのお礼のお供えも、かえってできましたというお礼である。
どうですか、今日の信心辛抱ね、辛いことを抱いておると、凍りついたようなものの中に住んでおると、ね、だからそれをじっと辛抱しておるというだけじゃなくて、ただその間神様に一生懸命拝みよるとか信心しよるとかというだけではなくて、ね、そういう辛いものを抱いておる時にどういうあり方になったらよいかと、ここが問題なんです。
ここが徳を受けるか、物事が整うていくか成就していくかということになるのだ。
だからこの期間をです、一人よりも二人、二人よりも五人というようにです、一家中の者が勢を揃えて、その凍り果てておるところの、そのまあ、氷をですよね、信心の熱情をもって溶かしていかなければならない。
だんだん三年経ち五年経ちしていくうちに表れてくる。凍っておったものが溶けてくるんです信心の熱情で。ね、そもそも信心の熱情のどこにかけるかということをです、私は家業の行だと、こう、今日は言うておるわけです。
ね、なら、家業の行というのはただ商売人が一生懸命商売をしておる、お百姓さんが一生懸命田畑を耕しておる、一生懸命仕事をしておるということがです、皆は家業の行のように言うけれども家業の行というからには行として神様が受けて下さるまでやらなきゃだめだと、そんなら、どういう生き方が家業の行としておかげを下さるかというとです、徳になるかというとです、ね、純粋なもの、ね、純粋な真心、ね、神様の御用のためにです他に何にも自分は御用が出来んから、せめて大祭の後先の一週間ぐらいは泊まり込んででも御用をさせて頂こうとするその純粋な信心態度というものがです、ね、御用として神様が受けて下さっておる、その印には自分の留守中には息子さんが「お父さんが合楽に御用頂いておってくれておるから、こういうおかげを頂いておることは間違いない」家族中のものがそれを実感していきよる。
大祭の前日なんかは、そのおかげの上にまたこのようなおかげを受けておる。さぁはよう合楽に行ってくださいと言ったような雰囲気が家庭の中にある。
ね、そういう御届けをです、大祭の翌日でしたか、ね、それこそ感激いっぱいで御届けをされておりましたら、私の心眼に久富さんありがたいことですねほんとにありがたいことねと私はその久富さんの御届けを頂かせてもらいながらそう言いながら神様にそのことを御届けさせて頂きよりましたらご心眼にね、●② あの、ゆずる、ていうですか、「おゆずる?」というですか、お弟子様にまぁお参りをしてある方たちが着られるもの、あれはおゆずるって確かにいうでょう。それももう私が心眼に拝むのは真ん中が真っ赤で両端が白のおゆずるで、その赤の真ん中に「同行二人」と書いてあった。
ははあ、神、我と共にありとか、同業二人とか、まぁお道の信心ではもう、ずいぶん聞いてきた。ね、神、我と共にあるんだということ、理屈の上においては誰でもそうだと思えることは思えるけども実感としてです、なら、神、我と共にあったらどういうおかげを受けられるかということなんだ、ほんとにあったら、神様が私といつも共にござるならその神様がどのような働きを御直会に見せて下さるかということなんだ、そういう働きを見せてもらわずに神様が私と共にある実感もなしにです、神、我と共にあるんだとというようなことやらは、横着な言い方であり、間違った、言わば浅い浅い神、我と共にありということになるのだ。
ね、純粋な御用が出来ておる、ね、御用というのはそういうこと。ね、その御用がその純粋な度合いというか、真心の度合いというものがです、強ければ強いほど、それは真っ赤である。信心の熱情、ね、真っ赤、その真っ赤な信心の熱情にです、白というのは神様ということだと私は思う。白というのはね、何にも無い白、白というのは神様が両方からその真っ赤なそれに寄り添うてござる、これが本当の同行二人だということになる。
上野さんはそこんところを、書いてないんです、一番大事なところでしょうが。
ね、ですから例えば、ね、教会でのその、一週間あまりの御用がです、純粋な真心を持ってさせて頂いた。
家ではこの様なおかげを受けておった。
ね、そういう純粋道を持ってです、そういう真心を持ってです、ね、久富さんならば、田の御用、畑の御用を、野菜作りの御用をです、成されることが家業の行だということ。
ね、そこにはどういうことになるかというと、自分たちがこれだけ作っていく野菜そのものがです、ね、真心込めて作らせて、立派に作らせていただくということが神様もお喜び、それが社会のお役に立つ、人が喜んで下さることのために、そのご用が専念されるときにです、それは教会で、そして純粋な気持ちで御用を頂かれることも、自分の家庭で、そういう雰囲気というか、内容を持ってご用に当たられるならば、それこそが家業の行であるということ。
我情が抜けておる、ね、我欲が抜けておる、ね、食べるために作っておる野菜でなからなければ食べるために商売をしておるのじゃない。
それを神様の本当のお喜び頂ける御用として、それを日々奉仕しておる。
ね、だから、そこ辺の精神が、非常にやはり難しい、実にデリケートなんだ。
そこで私どもが純粋な気持ちで、教会での御用といったようなものは、これは、御用のその内容に触れやすいわけなんだ、ね、自分の利害関係がないでしょう。
ね、ですから、教会での一生懸命の御用をさせて頂いておる、しかもその純粋な気持ちで、真心持って御用させて頂いておる。それはもう間違いなくそのまま御用なんだ。
ね、ですから、そういう御用の精神を持って、自分のうちに帰って商売が出来き、お百姓ができるということなんです。それが御用なんだ。
ね、けどもまたこれをひっくり返して、そのいうとです、なら、教会での御用、たとえば特に取次ぎ者ですね、たとえば私共です。ほりゃもう、朝から晩まで、神様の前のこうやって座らせていただいておる。
ね、けども口には御用と言いながらです、その御用がです、ね、人が助かることのためにと、神様が喜んで下さることのためではなくて、自分方の生活のために、もしここに私が座っておるとするならば、それはいかにも御用のようにあって、それはもう私用だということになる。
だからそういうお広前では、人は助からんということになる。
ね、それをいかにも見た目には私用のようにある、うちで百姓をしておる、うちで商売をしておる、いかにも私用のようにあるけれどもです、そういう精神がです、先ほど、久富さんの例をとりました、久富さんの内容のようにな、教会で純粋な、自分は何にも出来んから、せめてせめてという思いでです、ね、泊まり込んでの真心から打ち込んでの、その御用がです、ね、そういう内容を持った家庭でのそれは御用であったらです、それこそが、本当の家業の行ということになるのだ。
形の上には、私用のように見えておってそれは御用だと、ね、だから、御用させて頂きますというその御用の内容が、ね、ひとつ足りんのじゃ無いか、御用と言いよるけれども、いっちょ足りんのじゃ無いか、一、二、三、四、の四、しようになっとる、またはそれを私と言うても良かろう、私用になっとらせんか、ね、そこんところを確かめながら、しかも、それをほんとなものに、いよいよ純粋度も、また真心も、段々深く広くなっていくことを、焦点においての日々御用に精進させて頂くということになればです、ね、そういう御用をさせて頂きながらです、いいですか、辛抱が出来ていく、そういう御用を頂きながら、辛抱させて頂く、それが信心辛抱であり、ね、それがその辛抱こそ、身に徳を受ける修行だという内容は、今日、私が申しましたような内容がです、ね、なからなければ、いわゆる、物事整うこともなからなければ、身に徳を受けることもないということ。
十年も二十年も信心させていただいておるから、金光様のことは、もおう一通りマスターでけた。
ね、だから、お話しどんするならば、ここにもあるように、それこそ節をつけたり、ね、ゼスチャーたっぷりでです、お話しはでけても、心に真がないならば、それは神に嘘をいうも同然であるから、おかげにならんのである。
ね、それはぼつぼつとね、何話よるじゃら分からんような話であっても、それが真心いっぱい自分の受けて来ておる信心の、体験の、それが発表であるならばです、その一言によって人がおかげを頂く、ね、節をつけたり、大きな声をしたりする必要は無いと仰ることはです、ね、ご神前に向かってだけではなくてです、ね、いわゆる私共の信心生活の中においても同じようなことが、ここで言えると私は思うのですね。
お互いが、信心辛抱させていただいておるわけですけれども、ね、だから、ただ、こうやって、信心辛抱させて、自分の信心、それこそ真ん中の真っ赤な熱情、この熱情を持って、そのこうりはてておる、凍っておるものがです、それこそ冷たい冷たい氷でもです、自分の信心の熱情で、とかさにゃおかんと言ったような熱情があるかどうか、しかもその熱情の中心である所のです、家業の行というその行にです、ね、ほんとに御用としての精進がでけておるであろうかと確かめながら、日々の信心をです、それこそ雨が降っても風が吹いても辛抱しぬいていくというところに、身に徳が受けられる、または久留米の初代が言っておられるように、ね、物事とのわんことはないというおかげが、受けられることを私は確信いたします。どうぞ。